天正十六年六月十一日、二階堂氏に属していた郡山城主・郡山太郎右衛門尉頼祐(朝祐)が伊達方についたため、佐竹氏・芦名氏・岩城氏・二階堂氏・白河氏・石川氏の反伊達連合軍らが安積郡に進撃しました。これが郡山合戦。伊達勢の主力は逢瀬川の北にある現在の富久山町久保田の日吉神社の境内・山王館に、連合軍は麓山に本陣を置き、合戦は今の郡山市のほぼ中心部で行われたといわれています。
では、この郡山氏の居城・郡山城とは、いったいどこにあったのでしょうか。郡山市史には、西ノ内の台地上にあったとされ、埋蔵文化財発掘調査も行われていました。また、地元の研究家によれば、実は郡山城は市街地の中心、陣屋にあったという説もあがっています。
大安場古墳、荒井猫田遺跡、清水台の郡衙跡に続く、大きな歴史遺産・郡山城。動乱の時代を見つめてきた郡山城は、今を生きる私達のすぐそばに眠っているのかもしれません。
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