都市計画を推進した郡山商人

都市計画を推進した郡山商人

私財を集めて復興を郡山の未来に夢をかけ郡山の商人たちそのパワーが国をも動かす事業へ発展させました

 戊辰戦争に敗れ、郡山の町も8割が焼土と化しました。さらに行政の変遷はめまぐるしく先が見えない中で、新しい街づくりを目指し、歯をくいしばる人々がいました。それが郡山の商人たちです。彼らは、経済の中心地であった郡山の地の利を活かし、自らの力で復興に取り組みました。
 明治3年、郡山の商人、村役人らの出資により民間主導型の「生産会社」を設立し、復興資金の貸し出し、地元産物の取次ぎ、生産者の援助などを行い、さらなる街づくりを推進しました。そんな中、民間人よる街づくりの活動が、国の殖産興業策のため開拓の敵地を探していた福島県の典事・中條政恒の目に止まります。これこそが安積開拓のはじまりとなります。
 明治6年、中條は安積原野に職を失った士族を入植させると、郡山の商人・阿部茂兵衛ら25人が出資して、のちに開拓の礎となる開拓組織「開成社」を設立、大槻原開拓をスタートしました。

 明治9年、明治天皇の東北巡幸に郡山の地を訪れた大久保利通は、これらの開拓を見聞すると、安積開拓と安積疏水の事業を国の事業として取組むことに。しかし、大久保の暗殺により安積疏水は中止へと。ここでさらに郡山人の決して諦めない強い精神が実を結びます。伊藤博文が大久保の遺志を受け継ぎ、明治12年、国の事業として安積疎水の工事が着工となりました。疏水工事が始まると、久留米や土佐、鳥取藩など全国各地から士族が開墾のために移住をはじめ、2年8ヶ月という歳月でかつてない大事業を成し遂げました。
 安積開拓、そして郡山発展の土台となったのは、実に郡山の民間人の血と汗と夢の結晶でありました。その後、明治末期から大正にかけても、郡山の商人らが私財を集め、先見性のある耕地整理事業を行い、水道、電気を生み出し、製糸工業を発展させました。 今ある経済県郡山は、当時の商人の夢をあきらめないパワーがあったからこそなのです。

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