江戸幕府を開いた徳川家康は、全国支配のため、1604年に郡山を通る仙台・松前道(奥州街道)を含む五街道の整備をはじめ、日本橋を起点とし一里(約4キロ)ごとに里程の目標である「一里塚」を築かせました。街道が整備されると郡山は宿場町としても栄え始め、宿屋や茶屋、呉服屋などが立ち並ぶにぎやかな街となりました。
元文元年(1736年)の「郡山村明細帳」でも、人口の3分の1が農業、3分の2は商業に従事していたと残されており、文政12年(1829年)には旅籠屋47軒を数えたそうです。
そんな郡山宿の面影が残るのが、駅前大町一丁目の道標。二股に分かれる道路の分岐点に「右奥州街道 左会津街道」と書かれた石碑があり、現在も元旅籠のような建物も見られます。また、現在のうすい百貨店の東側に二本松藩の代官所が設置されており、その代官所は「陣屋」と呼ばれていました。現在でも「陣屋」と呼ばれ、賑わいをみせています。また現在の金透小学校には蔵場があり、安積3万石の米が集積し、まさに郡山宿は安積郡の行政、物流の中心地となりました。
街道をさらに進むと、富久山町福原には「三代の一里塚」とよばれる碑と街道に植えられた松並木があり、当時の面影がいまなお残っています。
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